
コメント
坂口恭平さんに会えない期間がどれだけ続いても、 小宮さんはその日が来たら、怖気付かずに訪ねていき、隣にいる。
坂口さんの日々を、少しずつ写し重ねていくことができたから、 誰一人の命も差別しない実生活を、 この映画に登場するすべての声たちを、 坂口さん一人の命が写っていることと等しく、 記録することができたのだと思います。
小森はるか(映像作家)
野外フェスで演奏していたら、譜面台の隅に置いた携帯電話に着信があった。職業柄、音声もバイブレーションもオフにしてあるが、画面に坂口恭平と表示されたので、「これはライブ感があるな」と思い、通話を受けてみた。マイクに電話を押し当て、ちょっと歌ってもらった。彼と一緒に作った湊の歌。水俣の不知火海をイメージして書いたものだ。脆弱なスピーカー越しであっても、しっかりと生きた声だった。客席が沸いた。もしかするとあれも一種の、命の電話だったかもしれない。
七尾旅人(シンガーソングライター)
「生きる」ってどういうことだろう。
坂口恭平さんは、小説を書く。作曲をする。絵を描く。
鬱でないときは、人とも談笑する。
生命力の渦を巻き起こして、自分にかかってくる「いのっちの電話」の相手と対峙する。それは、死というものから目を背けないため。
困っている人がいたら助けるというが、とてつもないエネルギーが必要で、その源泉って一体なんなのか。
それは、恭平さんの日々実践しているアート・ワークとも繋がっていそうだ。あれこれ言い訳せずに即行動できるフットワークの軽さが「事務」の本質なのかもしれない。
クリエイティブな仕事から縁遠いと思われがちな「事務」に魂を注入するという恭平さんならではの視点。
恭平さんに次々と襲ってくる現実のすべてをねばり強く撮り続けた記録である。
小川公代(英文学者)
天才と持ち上げられることの多い坂口恭平に、とにかくしつこく密着した映像は貴重だ。
ドキュメント番組のようにちゃんとした構成も、ヤマもオチもない。
躁鬱をカムアウトしている本人に振りまわされる監督は、戸惑いを隠さない。
その開き直った素人っぽさに坂口恭平はこれまで見たこともない姿を見せる。
「いのっちの電話」に即座に対応し、噴き出るように絵を書き、ライブで歌をうたう。
それらすべてが坂口恭平にとってなぜ必要なのか。
監督の無防備で純朴な関心とカメラワークによって、
少なくとも私にはそれが伝わってくる気がした。
いつもギリギリの地点に立っている坂口恭平にとって、芸術は生きるためのものだった。
見終わった後にそのことが深く刺さる作品である。
信田さよ子(公認心理師)
坂口恭平という表現
坂口恭平の日常が映画になった。無理もないという気もするし、考えてみると、ヘンな気がしないでもない。表現者本人が映画という表現になってしまった。でも坂口は表現者である。言葉を発するし、小説にもするし、絵も描けば、作曲もする。表現とは奇妙なもので、作品として出来上がったものを周囲が鑑賞する。坂口本人が映画という表現になってしまうと、表現の表現ではないか。それでも表現か。そういう面倒なことを考えるのは、この映画の監督に任せればいい。私は坂口本人を作品として長年楽しんできた。だから四、五年に一度、顔を見る。坂口は「居心地の悪いところからは立ち去る」という人だから、私に会いたくないときには会いに来ない。
坂口の表現の要点は何だろうか。「いのっちの電話」かもしれない。生死の竿頭に位置する一瞬にかかわろうとする。だから幼児の時期まで遡ろうとするらしい。そこに生に向かうか、死に向かうかの竿頭がある。自分の過去を徹底的に遡ろうとする。自分の生の始まりまで遡る。坂口のさまざまな表現はじつはそこから生まれるらしい。自己の心をとことんまで遡る。そこから外部に向かう普遍的な表現が生まれる。普通の人はそこを誤解する。表現すべき普遍が外部にあって、それを上手に表現するのが表現者だ、と。ゴッホのヒマワリは、ゴッホの心以前にはなかった。ゴッホの心の底から生まれたのである。ゴッホ以前にあったのは、ただのヒマワリだった。自分の生死も同じではないか。生も死も、とくに立派なものではない。要するにふつうのヒマワリに過ぎない。でもその中からゴッホのヒマワリが生まれるのである。
2026年2月24日
養老孟司 (東京大学名誉教授)
玄関ドアの鍵が開く。撮影者がドアを広げると、坂口恭平はすでに創作部屋に向かって歩き出していて、大抵もうそこにはいない。何度も繰り返される玄関ドアから始まるシークエンスは、この作品が坂口恭平のエコロジーに深く肉薄しようとする意志をその都度確認するかのようだ。やがて僕は、坂口恭平の燃えたぎる創作=生活の運動に否応なく巻き込まれていく。彼の身体が、言葉が、イマージュが、音が、浮上し、具現化し、自他の境界を超えて命の循環を形作っていくのを感じる。自殺を自動生産するマシーンと化した日本社会に対する、彼の楽観的かつ能動的な革命の意志によって、生命力を蘇生されていく。坂口恭平という現象を体感するために、今後何度もこの作品に立ち返ることになるはずだ。
太田光海 (映像作家・人類学者)